認知バイアスと社会的合理性

一連のコロナ禍に対する社会の反応は,予期せぬ事態のときに我々がいかに認知バイアスにとらわれやすいかを思い出し,その反応は果たして自分で考えた結果なのかどうかを振り返るよいきっかけになります。

 

毎日見るのは「後知恵バイアス」。いろいろ結果が出そろったあとになって,最初からそうなることは自明であったと(本気で)信じ込んでしまうバイアスです。自分の正当性を無意識に守るために本人が過去を補正してしまいます。本人にまったく悪気がないだけに怖いバイアスです。中国語では「事後諸葛亮(後だし諸葛孔明)」というそうです。

 

「生存者バイアス」もよく出てきます。自分の主張の正当性を補強するために都合のいい情報だけをもとに判断をしてしまう傾向です。本当は客観的なエビデンスをもとに評価すべきことを,一部の期待に沿った情報だけが切り取られてそれが真実であるかのように語られる場面はあちこちにでてきます。生存者バイアスに基づいた意思決定の結果は,さらなる生存者バイアスを引き起こす傾向があります。「あそこの宝くじ売り場はよく当たる」とかがそうですね。

 

あとは危機に直面したときによくでてくる「正常性バイアス」や,あまり効果のなかった対策の後戻りができなくなる「サンクコストバイアス」などがよくみられます。これらのバイアスが複雑に絡み合うと,自分で考えて正しく行動していると本人は思っていても,実態は身動きがとれなくて主流の考えに流されているだけという状態になっているかもしれません。面白いことに,あるバイアスの対偶には別のバイアスが存在することが多いです。同じ軸で議論している以上,対偶のバイアスで意見がまとまることはまずないです。自分の正当性を強化するバイアスの方には誰もが容易に乗っかってしまいます。

 

「認知バイアスにとらわれるのは不合理だ」というのは簡単なのですが,わかりやすい社会的合意には必ずしも合理性が求められるわけではありません。もとより合理性とはフレーム問題と同じで,あらゆる意思決定の空間を探索できるわけでもなく,それぞれが異なるフレームで評価する以上,共有できる部分は限定的です。ましては未知の問題に対しては期待できません。社会的に合意(共有)できない複雑怪奇な合理性より,社会的に合意(共有)可能な簡単な共通項としての不合理の方が,社会的意思決定のロスが小さく危機にあっては有利に働く場面もあります。社会は繰り返しゲームと考えると,短期的合理性より長期的合理性を進化的に獲得するほうが正解なのでしょうか。それで絶滅してしまっては元も子もありませんが・・

 

 

以上の議論は,進化システムや強化学習のトピックでも時々でてくる話題です。認知バイアスがなぜ存在するのか,ヘテロジニアスな社会的集団におけるコストとリスクとベネフィットの関係において,最適方策の獲得には先天的な認知バイアスという内部報酬が必要だった,みたいな理論がつくれたら面白そうです。